吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2017/12/10◆とりとめもなく岐阜隊のことなど
 home  index  prev next 

【お読みになる前に】

FC岐阜のやることはすべて正しい!
大木監督のやることはすべて正しい!

サポはクラブやチームを100%信じなければならない!そうでなければサポじゃない!

という方とは意見の相違があるかと思いますのでご注意ください。


今年の夏に、偶然に旧知の岡山サポの女性と会った。岐阜隊の勝ち点が伸び悩んでいたころだ。もちろん、ぼくはグチった(苦笑)。その時に彼女から「FC岐阜のサッカーって、なんですか?」と訊かれて、ぼくは言葉に詰まったのだな。
彼女が言うには、岡山は「クラブのサッカースタイルの基本」が決まっていて、監督交代の際もその“基本"を守った上でチームに上乗せをする指導者を選ぶのだとか。さて、FC岐阜はどうだろう。FC岐阜のサッカーって、なんだろう。「パスをつないで攻める、ポゼッション第一志向のサッカー」だろうか。違うよね。それは大木監督のサッカーであって、FC岐阜のサッカーじゃない。

いや、実は大木監督のサッカーがFC岐阜のサッカー、かもしれない。FC岐阜は「FC岐阜のサッカー」がないままでここまで来た。そんなこと考える余裕なんかなかった。そして10年目、ようやく着手した「FC岐阜のサッカー」の構築。それが、それこそが「大木監督のサッカー」……だとしたら、恐い。とてもとても恐い。だって、すごく特殊なんだもん。スポンサー様の岡田准一君は『特殊で何が悪い。』とカッコよくキメてくれる。でも、ホントにこの特殊なサッカーを「FC岐阜のサッカー」にするの?「FC岐阜のサッカー」にするって、大木監督が退任したあともこのサッカーをやっていくってこととイコールだよ?

大木サッカーはテッテ的に『効率が悪い』。J2においては筆頭クラスに。ゴール1つ奪うのにパスが何本必要なんだ。以前の雑文で、「大木サッカーのパスつなぎは守備のためだ」と書いた====ThisIsTheErrorMessege====けれど、結局のところ失点の多さは下から数えて3番目タイ。ビク様がいなかったら残留争いに巻き込まれていたことだろう。「なんのためにパスをつないでボールを支配しているのか」わからない。わからないままでシーズンが終わってしまった。これでは「パスが目的だ」と認識してもしょうがないだろう。敢えて言おう、「パスが目的のサッカー」って、個人的に大っ嫌いなんです。


だったら岐阜サポ辞めちまえ!

とか、いまの空気感なら言われるんだろうか。言われるんでしょうね。でも、ぼくが岐阜サポをやってるのは「岐阜が好きなサッカーをやっているから」じゃない。自分の好みじゃないサッカーをやってるからって、サポを辞めたりはしませんさ。でもね。

今季の大木サッカーにネガティブに反応することへの『不寛容』を結構強く感じています。きっかけは、7月1日のぼくの呟きに対しコメントでサムダウンを7つくらい並べられたこと。コメントなんだからぼくに目にして欲しいに決まっている。そいつの書き込みによると「ファンペーパーの編集担当がキャプテン批判をするんだからチームが強くなれるわけがない」んだそうで、ぼくはサポの分際で強化の権限があったんだ!すごい、神ってるね!(くどいからもう止めます)。まあ、こいつは「同じ方を向いていないヤツはサポじゃない」とカテゴライズする程度の輩だから、自分がサポである以上は自分と見解が違うヤツはサポじゃない、と。はいはい、元気でやってね。

『岐大通』最終号で、ぼくも主筆も書いたのが「昨季の勝ち数を上回っていない」。====ThisIsTheErrorMessege====主筆は「現状では、戦い方の1つに過ぎない」という感想を話してくれた。そう、カウンターもポゼッション志向も、戦い方の1つ。そこに優劣はない。ポゼッション志向だからカウンターより上ということはないのだ。

プレーオフ決勝の名古屋。つないでつないで、のスタイルは岐阜と同じ。でも、つないでいるエリアが岐阜とまったく違う。アイスホッケー的喩えだと、「相手側ブルーラインあたり」でつなぐ名古屋と「自陣側ブルーラインあたり」でつなぐ岐阜。もちろん、相手側ブルーラインでつなぐ方が圧力になる代わりに、奪われてカウンターを喰らう可能性が上がる。なぜ名古屋はつなげて岐阜はつなげないのかの答は、「名古屋には、そこでつなげる選手がいる」しかない。つまりは、ざっくり言って選手のクオリティ。
大木サッカーは完成に時間がかかる。みんな、そう言うね。今季の大木サッカーが速度は緩くてもリニアによくなっていったのなら、65536歩譲ってそれに同意してもいい。でも、実際は4連勝した後のラスト9試合は3分6敗という惨憺たるモノ。内容的にも「よくなる過程」には、ぼくには見えなかった。いまの岐阜の選手ではこれ以上の上乗せが出来なかったと考えるしか答がない。要は、アタマ打ちだったのだ。さて、来季はどうするの。アタマ打ちだった選手に、もう一度大木サッカーを注入してボール扱いはうまくなるの。「相手側ブルーラインあたり」でつないで相手に圧力をかけられるようになるの。その点が、ぼくにはわからない。

ホーム最終戦後のセレモニーで、庄司が「この1年、とにかく愉しかった」と宣言してたし、宮田社長も「選手がホントに愉しそうに練習している」と言っていた(と思う)。「大木サッカーをやってみたい」というサッカー選手は多いそうだ。そりゃそうだよね、ボールにいっぱい触れるもん。実際、試合でも選手はいっぱいボールに触っている。でも、プロサッカーは興行だ。選手が愉しいのと同じくらいには観客も愉しくならないと成立しない。「選手が愉しいんだったら、負けてもいいじゃない」とはいかないのだ。

手数をかける、非効率なサッカー。今季のホーム戦は、松本戦以外は全部行ったけど、夏くらいから試合そのものはあまり愉しめなくなっていた。そりゃラグビーのライン攻撃みたいな美しい京都戦での大本のゴールみたいのも観れたけど。なんだろう、このモヤモヤもんもんはなんだろう、どう言えばいいんだろう……とモヤモヤもんもんとしていたところ、岐阜サポの友人が一言で喝破してくれた。

「このサッカーは   飽きる。」

そうそう、それ!その一言!ぼくは今季の大木サッカーに飽きたんだ!

ゴールを奪いに行く側があり、その相手はゴールを奪われまいとする。そのギリギリの攻防がサッカー観戦の醍醐味だ。プロセスだけ90分観て、愉しいわけがない。しかも、そのプロセスはゴールを奪うプロセスではなく、ゴールを奪われないプロセスだ。しかもしかも、結局は奪われている。それが今季の失点の多さではないのか。

シーズン終了後、岐阜新聞が大木監督にインタビューしている。今季に関して「戦い方がよくなかったのかもしれない」。来季に関して「もちろん、戦い方を変えるつもりはない」。この2つの発言を足し算するとなかなか香ばしい答が導き出されると思うのだけど。嗚呼、やっぱりこんなことも書いちゃいけないのかな。いけないんだろうね。岐阜の、岐阜サポの、周囲に潜む「不寛容」。来季も『岐大通』は出すつもりだけど、もうぼくは編集だけにして、『岐大通』には最終号の総括以外は何も書かない方がいいのかもしれない。

 top  prev next