吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2004/05/07◆I'm only in it for having-fun.
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ぼくは『節目』は結構気にする人間だった。自己紹介ページにも書いたけど、サッカー観戦オタクになる前は鉄道やらバスやらフェリーやらを乗り歩いていた。「えっ?」と反応するひともいるだろうけど、実はフェリー100社目は『宇高国道フェリー』。完全に狙い撃ち。船内ではラヴェル『ボレロ』を聴いていた。徐々に近づく高松の夜景に合わせてクライマックスになっていったらいいだろうな、と思ったから。ナルシス入りまくりである。

渡船マニアになる前はバスマニア。現在ではたぶん300社は乗っているはずだが、ちゃんと数えていたのは268社まで。200社目は『壱岐交通』、これも狙い打ち。


江戸期の著名な“旅人”として知られる松尾芭蕉。「実は幕府のスパイだった」とかの解釈もあるらしいけど、途中で芭蕉と別れた河合曽良という人物について気になっていた。調べてみたら、朝鮮半島への派遣団と一緒に行動するも病にかかって壱岐北端の勝本港で病死したらしい。辞世の句はなく、墓は現在も勝本港にあるという。ぼくはどうしようもなく河合曽良の墓が視たくなって、200社の節目を壱岐交通にしたのだ。
対馬・厳原からのフェリーが郷ノ浦に着いたのは夕方近くで、そこから勝本方面のバスに乗った。島全体が夕暮れ色になっていく中で、勝本に着いた。予約した民宿に荷物を預け、入江の奥にある河合曽良の墓まで歩いて行った。もうあたりはだいぶ暗くなって、入江の港に係留してある漁船もみんな闇に沈んでいくようだった。河合曽良の墓を視ながら、自分の墓が旅先に建つ姿を想像する。悪くない、と思う。もちろん、旅先で死ぬだけでそこに墓が建つわけじゃないのだけれどね。ああ、なんてナルシスなんだ。こうして打っていても恥ずかしい。


あれから何年経過したのだろう。間違いなく10年は過ぎている。ぼくは緩やかに死んでいくと歌ったのはフリッパーズ・ギター====ThisIsTheErrorMessege====だったはずだけど、あと1ヶ月も経たずに40になるぼくは明らかに下り坂だ。死ぬ方向で生きている。ひとは生まれながらにして死に至る患者だ、と行ったのはT・S・ガープ====ThisIsTheErrorMessege====だったっけ、憶えてないや。
鉄道→バス→渡船と移り歩いてサッカー観戦にたどり着いて10年。200ピッチをどこにするか?と思い悩む話は以前の雑文====ThisIsTheErrorMessege====に書いた。ただ、今回は狙い打ちはしないことにした。というか、狙い打ちすることに意味が見いだせなくなってきている。

ぼくが生まれてから死ぬまでに獲得した莫大な知識や経験といった記憶情報は、もしもぼくにこどもが出来たとしても、そのほとんどは遺伝子によって伝搬することもなく捨てられていく。つまり、ぼくらの人生経験というのは圧倒的に無駄遣いなのだ。ましてや、ぼくの人生は死後にも伝記として残されるようなものでもない。節目の200ピッチがどこかだなんて、何の意味があるのだろう。ぼくはもう捨てる側に来ている。

ぼくは自分がサッカー観戦旅行を続けたいから、それだけのために続けている。ザッパ風に言うと I'm only in it for having-fun====ThisIsTheErrorMessege==== ってところかな。聴いたことないけど。


かくして、5日の奈良鴻池陸上競技場の関西リーグ観戦が200ピッチになった。おそらく、近日中には201ピッチ目が刻まれることだろう。続けられなくなったら、やめたくなったら、やめるだけ。そこがゴール。

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