吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2007/05/06◆怒濤の一週間
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◆4月21日 土曜日◆

実家からの情報では「悪いなりに落ち着いている」とのことで、この週末は上京しないことにした。で、京都紫光×ルネス甲賀を観に水口へ。少し前に単車で行った時に、高速を使わないと2時間以上かかって結構消耗することを知ったので、電車を乗り継いでいくことにした。


そこで「SSフリーきっぷ」の登場。土日祝のみ発売の1日乗車券で550円。====ThisIsTheErrorMessege====試合会場最寄りの水口城南までは片道で970円もするのだ。というわけで、米原からのーんびり83分。テレビの『ローカル電車の旅』の世界だ。ちなみに新快速で米原から83分だと大阪まで行くことが出来る。水口城南から歩いて10分程度。会場の入口あたりでキックオフの笛が聞こえてきた。
試合は、ルネスが縦をしっかりケアして紫光の侵入を許さず、逆に攻撃時には左のライン沿いを突いて仕掛ける。やがて綺麗にサイドを使われてルネス先制。紫光のSD付経理部長の要職に就く知人のA子さんも「ウチは研究されている」と憮然としたご様子。
後半になると、紫光はバランスを無視するかのごとく攻撃的選手を次々投入。おかげで実際にバランスの崩壊した後ろを突かれてやられたい放題の展開に。紫光は普段は温厚な監督さんもだんだん熱くなって、となると試合中における沸点の急激な降下には定評のあるSD氏はかなり攻撃的な叫び声が増えて来て、退席処分が出ないかと当方はヒヤヒヤ。しかしそんな展開もルネスのシュートミスにすべて救われ、最後はバランス無視で攻撃に出た紫光がその功を奏し、茶木がつっかけたところをルネスGKが倒し一発退場&PK。これを落ち着いて決めて試合はドローで終わった。PKが決まった瞬間は、SD様も手を叩いてお喜びのご様子。まあね、紫光はよくぞ勝ち点1を持ち帰ったという試合だったし、この内容では1年で4部復帰は厳しいタスクのようにも思えるが、スポンサーとしては挽回に期待したいところ。
帰りも近鉄で米原までのんびりと。途中、八日市で乗り継ぎ時間が40分出来たので新八日市の駅舎====ThisIsTheErrorMessege====を堪能してきた。こういう駅舎が残っていると嬉しくなってしまう。米原駅で恒例の『よもぎそば』を味わって帰宅。

◆4月22日 日曜日◆

数日前に某所で呑んでいたら戸塚監督とばったり会ってしまい、少々お話をする機会を得たのだけど、その際に「22日の流経大戦はいままでと違うはずだ」とおっしゃっていた。「勝っている間はスタメンを替えない」と言っていた監督が、出場停止や体調不良などもあったみたいだけど何人か入れ替えて臨んだ流経大戦は、これまでのホーム戦での“勝つけどストレスが残る”内容とは違い「スッキリ勝った」と言える試合で、観戦を終えたら自宅に戻って自宅の掃除をするつもりが終了後にサポ連の祝勝会に混ざることになってしまう。そりゃだって、CB菊池がFW片桐との縦のワンツーで抜け出してゴールなんて、これまでの岐阜の文脈ではあり得ないものを見せられたら。栃木戦に向けてサポ連もアドレナリンがふつふつと、というところか。

◆4月23日 月曜日◆

勤務中に実家筋よりメール。「血圧が上60台まで落ちた」とのこと。これだけ下がると濾過が出来なくなって腎機能が停止する。しかし、その後は緊急的連絡もなく通常通りに仕事をしていたところ、午後5時に「血圧が測れないまで下がった」との連絡。勤務を終えるとすぐに新幹線に乗ったが、掛川=静岡間で父の死の報が届いた。もはや間に合わないのに、“のぞみ”号はぼくにとっては意味もなく新横浜に急ぐ。なんか、福田大将の『涙のVゴール』みたいだと思う。

3月16日に、入院中の父が心筋梗塞を起こしたとの連絡が入り、勤務を打ち切って新幹線で上京。その際はなんとか持ち直して18日には岐阜に戻ったのだけど、いつかは訪れる“父の死”とどう向き合えばいいのかわからず、わからないままに病院最寄駅近くの古本屋に寄ったら『げんしけん』の8巻9巻があったので購入してしまう。登場人物の半数近くを“卒業”で失ったにも関わらずキャラを補充しなかったために、主人公・笹原の恋愛という定番テーマをエンジンにせざるを得なかったのだろうなとは思いつつも、一気に読んでしまった。
「生きる」ということは、当たり前だけど生物学的な『生存』という概念のみで成立しているわけではない。食べ、語り、動き、争いもするだろうし恋もするだろうし、そうした『いとなみ』という概念が抜け落ちている父の姿が深く刻み込まれた状態のぼくは、これから数日はこの定番テーマに思い切り癒されてしまったことを正直にカムアウトします。
そして、『げんしけん』も癒されながらも、「おそらく快方に向かうことはない」というような内容の医師の説明を受けて、近いうちに必ずやって来る“その時”を視野に入れながらぼくはその後の1ヶ月あまりを生きてきた。そして、その時が来たのだ。
新横浜で新幹線を降りる際、外国人の親子連れ観光客と目があった。男の子はまだ5歳か6歳くらい、かわいい盛りだ。ぼくが小学生の頃だと思うが国語の教科書に載っていた詩の一節を思い出す。子どもが産まれて喜んでいる一家に生命保険の勧誘員がやって来る。「よくわかりましたね」と訊くと「匂いが届きますから」と勧誘員。その詩人は、産まれたばかりの赤ん坊のどこに“死”の匂いを植え付けたのだろう、と詠む。宗教とか哲学とかはこうして発展していったのだなあ、と思う。新横浜で電車を乗り継いで、病院に向かった。

父の遺体とは病院で対面した。ホントに眠ったままのような表情だった。よく遺体に接して「もう一度目を開けるんじゃないか」という表現を目にするが、それが形容ではなく本当にそうなのだということをこの時に知る。父の遺体は葬祭業者の寝台車に乗せられ自宅に運ばれた。
自宅で末期の水====ThisIsTheErrorMessege====の儀式などが行われ、その後かけつけてくれた親類縁者を交えて葬儀進行の打ち合わせ。「落ち込んでるヒマはない」とはこのことで、数多くの事項をテキパキと決定していかなければならない。通夜が水曜で葬儀が木曜と決まった。これで火曜日が準備に割けることになったが、準備に1日割けてこれだけ慌ただしいのだから、亡くなった翌日に通夜なんて事態になるとタスクのあまりの圧縮に恐ろしくなってくる。となると、ある程度は葬祭業者に任せざるを得ないし、業者側も「宗派や地域によりいろいろしきたりがありますが、すべてお任せください」という状態でイベントプロデュースに臨む。あえて悪い言い方をすれば、そういうマッチポンプ的状況を作り上げたのが葬祭業界なのではないか、という気すらしてくる。葬祭業者が帰ったのちも親族レベルの打ち合わせは3時過ぎまで続いた。

◆4月24日 火曜日◆

職場に忌引届をFAXで出す。実家にFAX機があってよかった。簡単なコピーも取れる。ご近所の方が手伝いに来てくださる。大変ありがたいことです。前夜に葬祭業者と詰めた部分で漏れていた箇所や疑問に思った部分を書き連ねる。父の友人の方々が弔問にいらっしゃる。生花盛籠の数などが固まっていく。夕方からは再び葬祭業者が来て仔細の詰め。遺影は2枚の写真を合成し、細部を修正して作られた。昨今の映像技術はものすごいねえ。打ち合わせは夜9時頃までかかるが、業者の方に「かなり詰めている方です」と言われ安心する。葬祭業者が引き上げると鋳造はアタマがパンク。風呂に入って勝手に寝てしまう。

◆4月25日 水曜日◆

午前中は比較的余裕がある。詰めの協議は終えているし、やはり準備に1日使えたというのは非常に大きい。午後3時あたりから親族が集まってくるが、住宅街なので駐車場がなくスペースの確保に苦労する。午後4時、納棺。父は相変わらず「もう一度目を開けるんじゃないか」という表情をしている。皆で協力して遺体を移す。山登りが好きだった父の棺には、登山用の杖やその際に愛用していた衣類が収められた。ぼくの棺には何が入るのだろう。ユニや旗を入れたら収まりきらないだろうな。皆で棺を寝台車に乗せて、葬祭業者のホールへ。
通夜の前に、まず親族で焼香。ここでスイッチが入った。というのも、これまでぼくが出席した「通夜」「葬儀」というのは大抵はここから。遺影があり、生花などで飾られた祭壇があり。そこに、今回は父の写真がある。2日前に緊急で帰宅してからこれまでの出来事が“父の死”とダイレクトリンクされた瞬間であり、涙を堪えきれなくなる。しかし、泣いているわけにもいかない。ここでも、生花の順番などの細かい修正を親類の助言などを基に行う。
通夜の進行に関しては問題なし。問題は終わってから。いただいたお香典の問題がある。なにせ多額の現金だ。管理には慎重にして過ぎることはない。そこで思いついたのが、ぼくの銀行口座に移してしまうこと。幸いにしてぼくは東海銀行時代からのUFJユーザ。ATMは24時間動いているはずだ。たしか、葬儀場近くの駅前に支店があったはず。
と義兄のクルマで駅前まで連れて行ってもらうと、そこには確かにBTMUの支店があったが、閉まっている。あれ?とよく見れば菱形のマーク。つつつ使えねえ東京三菱系の店ではないか!とっととサービス揃えんかいくそだあけが、と悪態つく前にUFJ系の店を探さないといけない。ネットが使えれば……、!と思いついたのがコジコジじゃからん嬢。彼女に緊急で調べてもらったところ、隣の駅前の支店がそうだと判明して事なきを得た。
戻ってくると盟友Sun'sSon氏が弔問に来てくれていた。少し話をして、それから翌朝の準備。弔電の整理と読み上げの順番などを決める。あとは、ホールの控室で寝るだけ。ぼくと母と従兄弟が交代で起きていることにした。
確かに、怒濤の一日だった。これが明日も続く。しかし、タスクは決まっているのでプレッシャーはあまりない。あとは粗相なくこなせるかどうか、だ。

◆4月26日 木曜日◆

従兄弟がコンビニで朝飯を買ってきてくれた。ぼくとしてはすぐ近くのファミレスで交代で朝飯の方が希望だったのだけど、普段から「家族で朝飯」のひとと「一人で朝飯」のひとでは志向が違うのは当然。とにかく驚いたのが、父の遺体から髭が数本生えてきたことだ。“死”というのはすべての活動が止まるわけではない====ThisIsTheErrorMessege====のだね。
9時になるとわたわたと準備が始まる。葬儀は11時から。名古屋からも職場の方が2名来てくれた。葬儀も進行は問題なし。想定外だったのは、喪主である母が最後の挨拶文をカンペなしで行ったことだ。これで、精進落としの挨拶担当であるぼくも暗記で臨まざるを得なくなった。とバカなことを思いつつも、最後の別れでは涙がボロボロと。“死”とは、そういうわかりやすいカタチをしている。棺に煙草を入れた。父は煙草の吸い過ぎでカラダを壊したようなものだが、もうカラダのことは気にせず煙草も吸えるだろうということで。彼岸にはそういう人が大勢いるのだろうなあ。

火葬場は住宅街の中にある。というのも、そもそも何もないところに火葬場が建てられ、その後周囲が住宅地になったのだから仕方がない。火葬設備でなければ静かな公園のような感じ。ここで、本当に最後の別れとなる。約2時間かけて父は骨だけになった。抗ガン剤で骨がスカスカになっていると医者は言っていたが、予想以上にしっかり残っていた。環境保全課の担当者が「ノドボトケ====ThisIsTheErrorMessege====はちゃんと残っている方ですね」と解説してくれる。1割程度の方はノドボトケが判別出来ないくらいに壊れちゃうのだそうだ。
壺に骨を移し、精進落としの会場へ。参加人数が読み切れないのと、親族の中に膝を悪くして椅子が必要なひとが何人かいたこともあって中華料理店で。挨拶は一応カンペなしでこなせた。これで、一連の儀式は終了。自宅に戻るタクシーの中で、骨壺の入った箱を抱えながらぼくは心の底から「ああ、コーヒーが飲みたい」と思った。コーヒー好きの父も同じことを思っていたかも知れない。
帰宅すると葬祭業者が待っていた。仮の祭壇を設置し、骨壺と遺影を配置。供え物をして、それから部屋を替えて仏壇とか位牌とかの今後の打ち合わせ。業者曰く「葬儀が終わった直後にここまで詰める家は珍しい」のだそうだ。大抵は疲労困憊で、続きはまた日を改めて、になるんだってさ。今日の分のお香典を再び銀行口座に入れて、まずは一安心。

◆4月27日 金曜日◆

特にどうということはない一日。朝起きて、新聞を読み、テレビのニュースを視ながらパンとコーヒーの朝飯。こんな普段の日常がようやく戻ってきた。そんな感じ。
そしてぼくは思った。日常に戻らなければならない。これからも、非日常のイベントはいろいろ起きる。だから、日常に戻らなければならない。
そしてもう一つ。「生きている人間は、生きていることを愉しむ『義務』がある」。だから、ぼくは動き始めることにした。


かように、いろいろと多忙な一週間でした。これからもいろいろとあるだろうけど、鋳造は出来るだけいままで通り生きていきます。

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