“ゆめのかよいじ”というマンガをご存じだろうか。作者は大野安之。
大野安之というマンガ家を知ったのは“That'sイズミコ”という、シュールでスラップスティックなSFマンガだった。時空をも飛び越える極楽院一族の娘・イズミコの天衣無縫な行動に振り回される友人のゆーこ、という設定はまあよくあるものなのかもしれない。結局は『バイポーラー』という壮大な構成のシリーズの重さを支えきれずに瓦解していったというのがぼくの認識なんだけど、マンガ読みさんの感想は違うんだろうな。
ぼくは小説やマンガを含めて「SF」というものをあまり読まない。====ThisIsTheErrorMessege====だから、SFと呼ばれる作品の基準となっているらしい“センス・オブ・ワンダー”====ThisIsTheErrorMessege====という概念はよくわからない。しかし、この“That'sイズミコ”という作品の中に、ぼくにとっての“センス・オブ・ワンダー”No.1と言えるシーンがあった。
極楽院家のものすごーいデカい風呂に、イズミコが独りで入っている。
そばに佇むゆーこ。イズミコが話し出す。こんな話だ。「例えば、“AとBが同じ物質”だというのは、AとBが同じ組成で出来ているというだけで、同じ“モノ”から出来ているわけではない。そういう意味では、AとBは同じ物質ではない。私とカガミコの場合は違う。私たちは同じ“モノ”で出来ている。カガミコが視ている眼は私の“この眼”なのよ」
「わからない……そんなことが出来るの?」
「したのよ」
この「したのよ」が、ぼくの“センス・オブ・ワンダー”第1位である。これがあるから“That'sイズミコ”も憶えているし大野安之も憶えていると言ってもいい。
前振りが長くなった。
その大野安之が描いた1988年の作品“ゆめのかよいじ”は、スラップスティックの香りなどどこを探しても見あたらない作りになっている。都会からある事情で田舎町に転校してきた女子高生・真理。その学校は老朽化なんて言葉じゃ語れないくらい古く、彼女はその校舎に棲みつく同じ女子高生の幽霊・梨絵と“恋”に落ちる……。その2人の物語に『民間伝承』が絡んで進んでいく。
これから読む方の為にストーリーは書かない。しかし、最終章『電脳』については紹介してしまおう。
真理の兄の孫・リサは『電脳』という情報記憶ツール====ThisIsTheErrorMessege====を活用して頭に浮かんだイメージや印象を残して愉しんでいる、近未来のスペースコロニーで生まれ育った女子大生。研究室で余った切符で地球に降り、そこで持ち込んだ電脳に何かの人格が宿る。それは、リサがイメージした真理の姿をしていた……
“ゆめのかよいじ”という作品。ぼくも友人の遠森慶====ThisIsTheErrorMessege====も大絶賛だったのだが、この最終章『電脳』の解釈だけは真っ二つの正反対だった。彼は「この『電脳』がなければ完璧な作品だったのに」と言う。ぼくは「この『電脳』があればこそ、物語がただのノスタルジーで終わらないものになっている」という解釈。この部分においては我々は16年間も休戦状態である。彼がどう思っているかはわからない。もう忘れているだろう。しかし、少なくともぼくはこの点について彼と和平を結んだ記憶はない。
しかし。実は戦いはすでに終わっている。
ぼくの完敗で終わっているのだ。
というのも、この“ゆめのかよいじ”は後に加筆修正されて再発売になっているのだが、その再発版には『電脳』の章がないのである。作者のコメントとして「『電脳』は現実と合わないので削除した」だかなんだか書いてあったと記憶している。記憶でしかないのは、ぼくは再発版を買って数時間後にはあまりのショックに新古書店に売り払ってしまったからだ。一部の読者がどんなに評価しようが、もはや戦いどころではない。作者が否定してしまっているのだから。
さて、土曜の朝・午前4時。ぼくはこれから例によってちょっと旅に出る。携帯からweblogに旅行記を載せるというのは、極めて限定された意味で『電脳』的使い方ではあるが、やはり機能的にはかなり制限される。現時点ではPDAあるいはノートPCという選択肢になるのだろうけど、2時間程度しか電源が保たないのでは話にならない。それに、PCを開いてOSを立ち上げてキーボードに打ち込んで、なんてまだるっこしくてとてもじゃないが『電脳』ではない。
かくして旅先に小さなノートを持って行って、思いついたことを“印象の断片”として書き留めていくことになる。しかし、それをまとめる際には“印象”は発生したときとは別のものになっているのだ。『電脳』への道、いまだ遠く。
では、行ってきます。今回は携帯weblog更新を絞ります。詳細は後日の旅行記をお愉しみに。