吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2005/01/10◆悲しいしらせ。
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年初の雑文は元日の天皇杯決勝観戦やなんやかやについて書くつもりで準備もしていた。しかし、仕事も開始になった5日に訃報が飛び込んできた。“きび”さんが死んだというのだ。


まだインターネットがポピュラーな情報交換手段じゃ全然なかった頃のことだ。サッカーの情報は『代表』と『Jリーグ』だけだった頃のことだ。パソコン通信nifty-serveのJFL会議室やのちのJFLフォーラムには、会員達が文字通り“足で稼いだ”チーム情報や試合結果を持ち寄っていた。現在もコンサの後援会として活動している『コンサドーレ寄り』が何故この名前なのかと言えば、東芝時代に情報を提供していたファンが署名の後ろに必ず“(東芝寄り)”と書き加えていた流れを汲んでいるとぼくは理解している。ぼくも、西濃運輸やデンソーの情報を細々とだけど提供していた。そして、東京ガスの情報を提供していたのが“きび”さんだ。

彼はガスサポであり、ガスサポがガスサポと呼ばれる直接要因である『ガスサポらしさ』の開拓メンバーのひとりだった、はずだ。初めて会ったのは94年の都田。ぼくにサポの面白さを伝えてくれた試合。その後も都田で勝てない東京ガス、そしてそのカードを毎年観戦に訪れる吉田鋳造。何年かあとの都田でぼくに塩を投げつけてきたのは彼だ。当時のJFLは試合終了後にエール交換を行うという緩めの雰囲気があったが、当時のガスサポにはそれを拒絶する動きがあった。nifty-serveのフォーラムでその点についてクレームがついた時に「ぼくらは自分のチームの勝利を願って会場に行くのだからエール交換はしません」ときっぱり宣言したのも彼だったんじゃないだろうか。これは少々記憶が怪しいが。

そして彼の彼らしさを表していたのがソウルでのエピソードだ。代表サポでもある彼は、フランスW杯予選の韓日戦を観に蚕室までやって来ていた。日本が勝って盛り上がるホテルに彼は電話をかけてきた。翌日がガスのリーグ最終戦====ThisIsTheErrorMessege====、出来れば観戦したいので席の予約をしてほしいという。ツアーを離脱して帰国する許可も得たけど、突然の変更なので件の試合に間に合う朝の便にはファーストクラスしか空席がなかった。それでも彼は予約を入れ、翌日の朝、サンダル履きにボサボサ頭によれよれジーンズという、一緒にいた飛行機マニアたろう氏に依ればバックパッカー以下の格好で空港に現れ、カウンターの職員を唖然とさせたそうだ。彼はもちろんその格好のままでファーストクラスでドンペリを呑みながら帰国したそうである。このエピソードに納得するサッカーファンは結構多いんじゃないだろうか。“きび”さんは優先順位の基準が誠にはっきりしているひとだった。


東京ガスサッカー部がFC東京になってからの彼の活動については、正直言うがあまり知らない。それでも、昨年11月のなび杯決勝でTGが初タイトルを獲った時には弾けんばかりに喜んだと信じたい。しかし、もし彼の遺灰を撒く機会があるのなら、それは飛田給でも小平でも江戸川競技場でもなく、やはり深川の東京ガスグラウンドが相応しい。そんな気がする。いま深川はどうなっているのだろう。まだグラウンドはあるのだろうか。

彼は間違いなく、JFLという戦いの舞台をともに過ごした“戦友”のひとりだ。YMOの高橋幸宏が何かのインタビューで、歳を取るということについて「『友達の家族が死んだ』から『友達が死んだ』に変わること」と応えていたのを思い出す。
この雑文を載せてから、ぼくは鏡島弘法に、彼の弔いに行く。もし今年TGを生観戦する機会があったら、その時は喪章をつけて行くだろう。“きび”さんは死んだ。クラブの歴史は続いていく。生きているぼくらの歴史も続いていく。死ぬまで。合掌。

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