吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2004/04/09◆『採点』をするということについて
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名古屋では火曜日夜に出回るサッカー週刊誌、今回はまだ手に取ってない。職場の最寄り駅はしょぼちい駅で売店なんてないし、自宅の最寄り駅の売店は結構大きいクセしてサッカー週刊誌を扱ってないので、ちょっと努力をしないと買うことが出来ないのだ。で、今週は職場で消耗することが実に多く、そのちょっとの努力より自宅直行メシ風呂寝るを選択してしまう。今回は新潟が勝った試合というより柏の負けた試合がどのように書かれているか、興味があるんだけどね。
マガジンとダイジェスト、ぼくはどちらを買うと決めているわけではないが、ここんとこダイジェストが多い。選手年鑑が視やすかったからだ。あと、小粒なようでポイント高いのが村山文夫の4コマ漫画。ここんとこジーコ&川渕批判+代表ネタは五輪中心ってのは、読者の意識傾向が反映されているのだろうか。


こないだの土曜の夜はBSで神戸×大分を視た。神戸の小島と大分の梅田、活躍は甲乙つけがたいといった印象だったのだけど、ダイジェスト誌ではMOMは小島だったらしい。当然、コジコジじゃからん嬢からは「うふふふふふふ♪」春爛漫桜満開なメールが飛んで来たが、まああの活躍なら敵ながらあっぱれといった感じで納得。
納得できなかったのは梅田の採点が高松より低かったことだ。梅田が6で高松が6.5?試合中ずっと走り回ってチャンスを作り、相手の決定的シュートをヘッドでクリアした梅田より、途中から出てきてクロスバーに蹴りつけた高松の方が上なの?


ぼくはかつて大分サポの知人から「鋳造さんも『採点』するようになると観戦が変わりますよ」と言われたことがあるのだけれど、いまだに一度たりともそのような視点で観戦したことがない。印象評価なのだから必要なのは採点者が基準値を持つことなのだけど、ぼくのような消費に徹して観戦している人間にそんなものが持てるはずがない。
チーム事情だって把握できていないのだし。例えば前回の雑文で書いたアローズ北陸。川上秀治が攻撃参加できないとこのチームは機能しないって印象は揺るがないのだけど、じゃあ彼が攻撃参加できなかった昨年までは彼のパフォーマンスが悪かったのかと言えばそんなことはないわけで、後ろに安定性が求められない状態で前がかりになることは危険だから下がって守備してたに過ぎない。

ヴェルディ時代だったと記憶してるけれど、サッカー週刊誌で前園が評価『1』をつけられていたことがある。いったいどういうプレーをすると評価が1になるのか、その時は全然わからなかったしいまでもわからない。この採点者に「あなたは自身の明確な採点軸でもって計測して前園を『1』にしたのか」と尋ねてみたいと、いまでも思う。


ぼくがサッカーの試合を『採点』という視点で観戦しないのにはもう一つ理由がある。ぼくが『サッカーをしない』人間だからだ。視てるだけ。自分に出来ないことが出来るひとは間違いなくそれだけで尊敬の対象になる。かつてロッキング・オンで編集長の渋谷陽一が「『饅頭が50個しか喰えないヤツは100個喰えるヤツを批評できない』ということはない」と書いて、自身の評論活動を正当化しているのを読んだことがあるが、50個しか喰えないヤツが100個喰えるヤツを批評するには、批評の“軸”に絶対の自信がなければならない。ぼくには、それがない。


そんなぼくが唯一『採点』をしているのが競技場印象録のページ。アクセスと見やすさを星マークで評価している。さすがに200近く彷徨いていればそれなりの“軸”は出来るので、儚いながらも自信はある。でも、それもぼくが視た試合に限っての話だ。観戦場所を載せるようにしたのは、メインで視るかゴール裏で視るかで印象がまったく異なるところ====ThisIsTheErrorMessege====もあるから。もちろん、天候でも見やすさの印象は変わるだろうし、交通事情でアクセスの印象も変わるだろう。所詮は印象評価だし、ぼくは競技場を『採点』しに彷徨いているわけじゃない。やっぱりぼくは「消費がすべて」な人間なんだね。

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