吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2003/02/11◆個性的な人間達の個性的でない日常。
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祝日であるけれど、「どこにも行くな、何もするな」という天気だったので、休職中に行きつけだったマンガ喫茶で超過時間ギリギリまでかけて朝飯を喰い、スーパーに行って各種食材を買い込んで帰ってきた。スーパーの構内には小さな本屋があるのだが、そこに『げんしけん』====ThisIsTheErrorMessege====のコミックスがあったのでこれも買った。で、さっきまで自室で読んでいた。

なるほどなー。

一応作品世界を説明すると、俗にオタクと呼ばれているひとたちの中で学生を兼務している若者達のゆるーい日常世界、ということになるかな。過去に、似た視線で描かれてかなりの人気を博したマンガを知っている。『動物のお医者さん』====ThisIsTheErrorMessege====えーっそんなことないっ!と怒るひともいるのかなあ。でも作り方は同じだと思う。作者が選んだテーマが違うだけで。
『げんしけん』は、いわゆるオタクのシーンを知らないひとには理解できないかもしれない。女性キャラはかわいく描けているのでその部分からとっつく読者もいるだろうけど、作品世界に入り込むことは出来ないだろう。同じことは『動物のお医者さん』にも言えるはずだ。あれがヒットしたのは、作品世界に共感出来たからではなく、動物が動物らしく描けていたからだとぼくは思うのだけど、それでも勘違いしたのか獣医になりたいという学生が急増したらしい。もう一つ勘違いされたのがシベリアンハスキーという犬。大型犬として描かれていたし、愛玩系ではないくらいわかるはずなのだが、それでも飼いたいという輩が多かったそうな。で、実際飼ってみると散歩に連れて行くにも大変で、結局飼育を諦めて野生化させてしまったり。


話がそれた。ぼくが『げんしけん』と『動物のお医者さん』に共通したものを感じるのは、登場人物のモチベーションが理解できないという部分。

例えば熱血スポーツものだったら、登場人物が求めているものが何か、自分では経験したことがなくても理解が出来る。キツい練習なども基本的には「勝利」を求めての行動だということが理解できるから、練習のシーンや監督や仲間との葛藤などのシーンも理解できる。ラブコメ系だったら、求めているものが「相手(のカラダ?)」だということが理解できるので、対人関係における軋轢なども理解できる。でも、『動物のお医者さん』を読んで思ったのは、登場人物が「北海道の大学の獣医学部にいる」ということが物語を進める上でのエンジンになっているのに、その状況を支えているモチベーションが見えてこないということだった。同じ事を『げんしけん』にも感じた。「登場人物は現代視覚文化研究会にいるオタクである」ということが物語を進めるエンジンなのだけど、そこから先がない。ということは、このエンジン部分がわからない人間はついて来れないはずだ。繰り返すが『動物のお医者さん』もそういうマンガのはずだった。

話はそれるけど、この、物語におけるエンジンって大事だとつくづく思わされたのが、あだち充「タッチ」だった。あの作品におけるエンジンは「浅倉南を甲子園に連れて行くこと」だったはずで、甲子園出場が決まった段階で速やかに大団円に向かわなければならなかった。新幹線の中で知り合うアイドル歌手====ThisIsTheErrorMessege====なんか不要。あれだけの物語世界を作れる人間がそんなことがわからないはずもない。となると甲子園編は人気マンガ延命=売上維持のための編集サイドの強い要請としか考えられない。あだち充も描きたくなかっただろうなあ。


話を戻す。で、ぼく自身はどうかというと、『げんしけん』の世界は理解できる。だから面白かった。
実はぼくも自分のいたサークル====ThisIsTheErrorMessege====では似たようなゆるゆるの日常生活を過ごしていた。一応は数学科の卒業なんだけど、数学ってのは実験がないので進級するごとにヒマになると言われていて、実際その通りだった。もちろん大学院を目指す連中は目の色が違ってたけど、ぼくは教養課程から専門課程に進んだ最初の日に「この大学で日々の糧を得ることは出来ない」と悟りきったのであとは就職することしか考えてなかった。となると、申し訳ないけど数学の専門課程を学ぶことで就職後に有利になるようなことはまったくないように思えた。
そんなわけで、ぼくは間違いなく授業に参加するよりサークルの部室で怠惰に1日を消化するという生活を続けていた。実はゼミの教授が近くに住んでいたのだけど、講義棟に向かう教授の背中に「先生ごめんなさい、今日もサボります」とつぶやいてサークル棟の方に曲がっていった回数は50や60なんてものでは、たぶんない。
結局、その学生生活でぼくはマニアックに人生を使う覚悟が出来てしまったというわけだ。でも卒業して十数年が経過したけど、道を間違えたとは思っていない。サークルでは機関誌編集を中心に活動したおかげで「文章で何かを表現する」という部分でずいぶんと経験値を上げたし、趣味対象がサッカーとかに移っても、その時の経験値のおかげで現在もネットに雑文やら旅行記やらを流すことが出来る。入学当時に世話になった教授が、新入生歓迎のパンフレットにこんな一文を寄せてくれた。

『将来の自分の糧となるものの種を撒いておくように。何が将来の自分を支えるかという命題については、量子物理学の法則に従って確率しか予測できない』

この教授の言葉は、カッコつけると現在のぼくを支えている重要なテーゼになっている。当時のぼくの怠惰な学生生活ですら、明らかに現在のぼくを支えているという確信がぼくにはある。果たして『げんしけん』の登場人物たちも、部室でゲームしたり始発電車でコミックフェスに並んだりといった経験を将来の日々の糧にしていくのだろうか。なんか、ちょっと違うような。


さて、『げんしけん』は今後どうなっていくのか。コミックス1巻しか読んでないけど、物語的な煮詰まりは既に気配を見せているような。エピソードの積み重ねは確実にネタ切れを起こす。となると「現代視覚文化研究会にいる」というエンジンだけでは物語は進んでいかなくなる。大学内サークルが舞台なんだし主人公は1年生なのだから、先輩を卒業させて新入生を入れていけば物語時間的に4年は持つけれど、「ドラマのない日常」がウリのマンガなのだから、物語を維持するためにサークル内の男女関係とかのもつれとかの安易なドラマツルギー導入に向かったら、それはもう違う作品。ぼくは『げんしけん』は作者の持ちネタがなくなった時点でとっとと終わらせてしまうべきだと思っているのだけど。でも「ドラマのない日常」には自分から打たない限りピリオドなんてないんだよね。

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