cyic.co.uk 吉田鋳造総合研究所
鋳造所長雑文録
2002/07/30◆手応えは共有できない、という話。
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病院ってのは一般企業と違って、インターネットには結構神経を使っている。職員の生産性うんぬんではなく、外部から攻撃を食らうと人命にかかわるからだ。しかし、私が準常勤する部署には業務上の理由でインターネットに出られるPCがある。もちろん、それには医療システムは入っていない。

ある日の夕刻、ふと思いついて「ガラス玉遊戯」====ThisIsTheErrorMessege====で検索をかけたところ、改名してカレー屋になったことが明らかになって、ぼくはしばし意識が朦朧となってしまった。ああ、我が青春のガラス玉遊戯。たしかに、通っていた頃からカレーはうまかったが、本当にカレー屋になってしまったなんて。

かつて、この喫茶店で所属サークル====ThisIsTheErrorMessege====の部内誌向けに簡単な原稿を書いたことを思い出す。テーマは「手応えは共有できない」。寺山修司の言葉らしい。この言葉をいつどこで知ったのかはわからない。誰から聞いたのかもわからない。でも、この言葉はこれまで旅行記とかを書いていたぼくにとって重要なテーゼだ。

「旅行記」にしろ「サッカー観戦記」にしろ、この「手応えは共有できない」という認識に著しく欠けた文章を目にすることがある。著者が「旅先」あるいは「サッカー場」で得られた手応えを文章によって読者に共有してもらおうという思想。
しかし、どんなに細かく丁寧に情景描写を繰り返しても、著者が得た手応えは決して読者には伝わらない。あの村上春樹をもってしても、針の穴場讃岐うどんを食べた時の「革命的変換」====ThisIsTheErrorMessege====は伝えきれていないと思う。必要なのは細かな情景描写ではない。いわんや、選手の名前とか動きとか3-4-1-2だとか3-4-3だとかシステムを説明したからといって、その試合のダイナミズムが伝わるはずもない。

いま、往復の電車の中で読み返している====ThisIsTheErrorMessege====本がある。宇都宮徹壱「ディナモ・フットボール」。====ThisIsTheErrorMessege====
サッカー批評====ThisIsTheErrorMessege====に載った時から気になっていたテキストだが、一冊の本になって魅力がさらに増したようだ。東欧社会主義国家に君臨した「ディナモ」、市民から嫌われた権力のクラブ「ディナモ」、嵐のような欧州革命で存在基盤を失い急速に弱体化した「ディナモ」、開放政策が招いたアイデンティティーの喪失から一部市民の憧憬を集め始めた「ディナモ」
この本が魅力的なのは、試合の描写が少ないにもかかわらず、まるでスタジアムにいるような感じが得られることだ。それも、閑古鳥とまでは言わないが熱気とはほど遠いスタジアムで繰り広げられる、お世辞にもスペクタクルとは言えないサッカー・シーン。ぼく自身が日本でそうしたサッカーを見慣れているからかもしれないが、試合そのものは伝わってこないけれど、スペクタクルのまるでない試合の行われているスタジアムの倦怠な空気は十分に伝わってきた。

手応えは共有できない。でも、伝え方によっては読者にも手応えてもらうということは出来ると思う。たとえそれが著者とは違う手応えだったとしても。そのために必要なのは、ボールの動きや選手の動きをこと細かに書くことでも、図解つきでシステムを分析することでもない。体験を体験として伝えることだ。感じたことを説明するのではなく、感じたことを感じたとおりに伝えることだ。そうすれば、もし読者が似た体験を持っていれば、手応えの疑似体験が出来るかもしれない。

しかし、この文章を読んでも、ぼくが「ディナモ・フットボール」を読んだ時の手応えはおそらく伝わらないだろう。手応えてもらうことも不可能なはずだ。ぼくにはまだそれだけの技量がない。要するに日々是精進ということか。こんど東京に行ったら、件の店に行ってみようか。部内誌向けに原稿を書いた頃の感触が戻ってくるだろうか。10年くらい前のStudioVoiceがまだ古い書棚で埃をかぶっているのだろうか。それにしても、ガラス玉遊戯がカレー屋ねえ。ためいき。

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