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【BEIJING-01】 2002/10/28 北京に白菜がやって来た
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  • 北京市街
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5時に起きて5時半にチェックアウト。かなり寒い。正面出口にはタクシーも停まっていたが、ぼくは西単のリムジンバス乗り場まで荷物を引きずっていった。タクシー利用なら空港まで100元見当だそうだが、リムジンバスなら16元で済む。荷物が重いせいか予想より時間がかかり、バス乗り場に着いたのは出発の5分前だった。切符を買って、中へ。もう後ろの方しか席が空いていなかった。6時に発車。コバルトアワーの北京、街は少しずつ動き出している。意外だったのは、空港から西単に来た時とは全然違うルートを走ったことだ。一気に西向きに走り、公主墳から三環路に入って右回りに北京市街の周囲を走る。三元橋から機場高速公路に入る頃に日が昇り始めた。北京の朝が始まる。きっといまごろ、市内には自転車の群れが出来ていることだろう。西単から空港まで40分ちょっとだった。

北京首都空港は、チェックインカウンターの手前にゲートがあり、そこでパスポートと航空券を提示する。中に入ってチェックインを済ませる。エコノミーのカウンターには長蛇の列があり、片方の列では、ツアー添乗員が50人分はありそうな航空券の手続きを行っていた。すぐ後ろに並んでいるアメリカ人の男はうんざりといった感じだ。チェックインを済ませて、イミグレ通過。北京のイミグレは時間がかかる。朝7時なのにここもかなり長い列が出来ていた。イミグレを通過してから朝飯。中日韓の食堂があったので、中華点心を注文した。45元+税金。4日間の北京旅行で一番高い食事が最終日の朝食というのも、ヘンなものだ。点心はかなりしっかりした内容で満足だったが、前の客の食器をなかなか片づけに来ないとか、基本的なサービスという考え方はやはり少々欠如していた。もちろん、それがこの国のルールなのだが、2008年までに状況はどれくらい変わるのだろう。
免税店はソウル金浦や仁川のような商売魂旺盛という感じではなく、拍子抜け。もしかしたら上海虹橋の方が賑わっているかも知れない。中国銀行の両替窓口が見つからないので、土産物はすべて残した中国元で購入した。3泊4日の旅行で30000円をほぼ使い切ったことになる。
大阪関西行はかなり空いていた。半分も乗っていないようだ。離陸して東へ。天津あたりで左にバンク。左側の窓側に座っていたぼくの目の前に中国の大地が広がった。それは、ぼくが一度も見たことがない種類のものだった。遙か彼方の地平線は丸く、そして地平線の手前には、山とか丘とか、とにかく標高のありそうなものは何一つ見えなかった。見渡す限りの平野にぽつんぽつんと、まるで小魚が群をなして大魚に見せようとしているかのように小さな家々が寄り集まって集落をなし、それとはまったく関係なしにいくつもの河が無節操にのたうち回り、赤茶けた土を海に流し続けていた。窓の外の景色は、風景の構成に関するぼくの知っているすべてのルールが通用しないように思えた。ぼくは北京にいた。しかしそれは、この広大な中国における極めて特殊なある一都市を見ていたに過ぎないのだ。ぼくには、まだまだ知らないことが多すぎる。


飛行機が天津から海に出てしばらくして、ようやく海が青くなった。


機内で朝の中国のニュースを流し出した。曼城====ThisIsTheErrorMessege====孫継海====ThisIsTheErrorMessege====がゴールを決めていた。プレミアでの中国人初ゴール。ボランチが右サイドにはたいて、サイドから低いクロス。ゴール正面で頭で合わせたのが継海だった。ゴールシーンは続けて5回も流された。そして、インターネットでは絶賛の嵐!というような報道も続いた。このあたりは日本も中国も同じだ。
スポーツニュースが終わると、画面に白菜の山が出てきた。大きなトラックの荷台に白菜がまさに山積みになっていて、市民がこぞって買い求めている。北京の冬は寒い。市民は買い貯めた白菜を家の外に積んでおく。もちろん凍る。しかし、白菜は凍っても熱を加えると同じ味が出るということで、北京の冬を越すのにかかせない食材なのだそうだ。「北京に白菜がやって来た」。それは、「北京に冬が来た」ことのサインでもあるのだ。

飛行機は、晩秋の日本に向けて飛び続けた。まだ緑色の多く残る日本の山林を見下ろした時、自分が長い間ものすごい遠いところに行っていたような気がした。

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