cyic.co.uk 吉田鋳造総合研究所
特別企画『ぼくの闘病生活』
第1回 「ある晴れた午後突然に」
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1993年5月15日、何してたよ?ってお題目がサッカー雑誌に載っていた。もちろんぼくはテレビの前に貼りついていた。この日のために買ったまだ高かったBS対応ビデオデッキと、これまたこの日のために買った当時としては比較的大型のテレビの前で。世間一般のサッカーファンと同じく「Jリーグ」というものの始まりをわくわくしながら視ていた。

このテレビとビデオの購入は結構な出費だったけど、資金はすべて生命保険会社から出ている。と言っても身内の誰かが死んだわけでもこの日のために殺したわけでもなくて。まあ10年経ったということで当時のことを振り返ってみようと思う次第。読者の中で該当する方がみえたら若干の励ましくらいにはなるかもしれない。


いま病院勤務だから言うわけじゃないけど、皆さんカラダに不調が出たら速攻で医者にかかりましょう。ぼくはJ開幕の1年前の92年夏頃から不調を感じていたし、周囲から「最近痩せたね、よかったじゃない」と言われても、嬉しい反面自身の食生活を振り返って痩せる要素はどこにもなかったのでそこそこ不安ではあったのだけど、真剣に考えることなくなんとなくほっておいた。どこかが痛いわけじゃなかったしね。

でも、10月頃からどうにもだるさが抜けなくなって、病院に行くことにしたわけですよ。11月アタマの連休明けの午後に予約を入れて。それでその連休は仙台→尾道というよくわからない旅行をした。尾道には当然渡船に乗りに行ったのだけど、ふと立ち寄った「浄土寺」という寺で籤を引いた。やっぱりどこか心配だったんだろうね。すると「病気」という欄にはこう書いてあったのだ。


「難病なり。信心せよ」


あれま、えらいの引いちゃった。と不安を消すことも出来ずに帰宅して、翌日の午後に予約通りに病院へ。検査結果を見た医者は正直にぼくに教えてくれた。


「吉田さん、おそらくこれはガンです」


はい?


医者によると、写真の画像からもまず間違いないし、血液検査の結果もぼくの中にガンがいることを明確に示していたそうだ。AFP====ThisIsTheErrorMessege====という物質が健康な人間の1000倍もの量が検出されたのだ。これはもうなるべく早期に入院してオペしないといけない。ふむふむ。なぜか不思議とパニックは起きない。とりあえず東京の両親に連絡し事情を説明。明日朝の新幹線でかけつけることになった。それから職場に戻り上司にも説明。病名を話し、長期離脱を余儀なくされることも話した。上司も事情が事情なので部内で代替要員を緊急に捻出することに同意してくれた。

翌日午後、東京から両親がやって来た。実はぼくの両親は2人とも病院で働いていたのだけど、病院勤務と言っても経理畑一筋だった父親は明確に動揺していた。それにひきかえ、看護師だった母親はタフなもの。パニックを起こしてもなんの得もないことを知っているのだ。その日の午後、入院。不安が押し寄せてくるというわけでもなかったけど、やはり寝付きは悪かった。

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